2015年8月8日土曜日

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)……声に出して言いたい監督名


2014年/アメリカ
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督


あらすじ:
落ち目のハリウッドスターが再起をかけてブロードウェイに進出します。


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私の愛してやまない作家のひとりに、伊藤計劃と言う方がいるのですが。
この方はノベライズや共作以外のオリジナル作品としてはたった2作を残して夭折した、素晴らしい才能を持ったSF作家だったのですが、大の映画好きでもありまして、作家になる前から独特な目線で映画の感想をブログにしたためておられました。
その中に、こういった一節があります。


まず、映画は「テーマを観に行くものではない」ということです。

宣伝文句で言われていることは、大体の場合映画の作り手の意思とは何の関係もありません。「ミュンヘン」を観て「テーマがよくわからなかった」などという人は、映画を観に映画館に行っているわけではないのです。代理店のコピーライターが考えた数行のキャッチコピーを、わざわざ1800円払って映画館に確認しにいっているだけなのです。

映画とは、そこにただある映像に過ぎません。



この映画のレビューを眺めていると、「テーマ/伝えたいことがよく分からなかった」という一節を時々見かけました。
大変残念な映画の見方だと思います。キャッチコピーでは分からない、言葉にできない何かを得ようと意識を持って映画を観たいものだな、と思います。
とはいえ、私もうまく何かをキャッチできているのか、与えられた分だけでも得られているのか、非常に不安なところではありますが。お金を払い数時間かけて映画を観るからには、テーマ以外の何かを一つでも多く拾っていきたいよね。この日記を読んで以降、自分の肝に銘じ、強く意識していることでもあります。

というわけでバードマン。
冒頭からびっくりするんだけど、主人公であるところのマイケル・キートンは超能力を使えるんですよね。予告編観てるとそういうファンタジー要素あるのかな?とは思ってたけど、まさかそんなあからさまに浮遊してるとは思わなくてびっくりしました。
といっても、あからさまに超能力らしき何かを使っているシーンって彼が1人きりの時に限られている。本当に超能力の使い手なのか、妄想なのかが分からないんですね。
はっきり言ってしまえば、彼が本当に超能力を使えるかどうかはどうでもいいわけです。彼は超能力を使えると思っていて、不可解な事象を自分の力のせいと捉え、それに振り回されているという事実だけが大事なのです。
そのあたり大変絶妙で良い。いい年こいたおっさんが60年代のコメディドラマみたいに指先ひとつでいろんなものを浮かしてみたりするような、ステレオタイプな超能力の使い方しちゃうのが何とも言えず滑稽です。超能力のタイプが古いんよね。「奥様は魔女」みたいなさ。若くて美人な奥様が使うからチャーミングに見えたしぐさも、くたびれたおっさんが人差し指でビシッと指さして家具とか動かそうとするのって、「お前大丈夫か」って心配したくなっちゃうよね。

娘役のエマ・ストーンは今作で存在を知ったのですが、すごく、すごくいい女優ですね!チャーミングだし、若者らしく自分を見失って無軌道にさまよっている。怠惰で、傲慢で、尊大で、脆い。若者って凄く複雑で面倒ですけど、それだけ魅力的で、そういった若者のすべてをうまく表現できる稀有な方だなあと思いました。
私は半分以上エドワード・ノートン目当てで観に行ったんですけど、やっぱ彼も上手だねえ。
彼の演じるマイクは、何にも考えてないんだろうな、きっと。俳優業も、天才的な勘で上手に演じることができるんだけど、若かったころに持っていたような情熱みたいなものはとっくに失われていて、演劇にリアルを求めているなんていうのは後付の言い訳で、実際は舞台の上で酒を飲みたくなったから飲むし、セックスしたくなったからしようとしたんだろうな。演劇が好きならたとえリアルを追及したとしてもそんな事しないでしょ。その場は臨場感が出たとしても、次のシークエンスはどうするんだよって話じゃん。
彼だけはあんまり、救われた気がしませんでした。最後まで自暴自棄な振る舞いをして、流されていただけに見えました。まあ最終的に流された先の選択は、悪いものではなかったとは思うけれど。
そういう風に、実は割と複雑な人間であるマイクを演じきってて、ノートン凄いなーって。グランド・ブダペスト・ホテルで生真面目な軍警察の大尉を演じているのを見たばかりだったのでなおさら思いました。
けどまあもうちょっと際立ってくれてもよかったかなあって。作中のマイケル・キートンとの演技合戦ではやっぱりマイケル・キートンが圧倒していたなって思いました。まあそういう話なんだからしょうがないんだけどさ。マイケル・キートンが身の上話をして泣き出すシーンは息を飲みます。
余談ですが私のマイベスト・エドワード・ノートンは「アメリカン・ヒストリーX」です。いつか記事にしたい。

本作はドラムがね、BGMのドラムが非常に良いです。むちゃくちゃかっこいいし、ストーリーに寄り添っていて心地よい。あ、予告で流れていた曲は本編では一切流れません。そこすんごいビックリしたけど、まあ、本編とは関係ない所だし、ドラムはかっこよかったので、良い。


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2015年8月7日金曜日

キサラギ……大の大人が売れないアイドル囲んで右往左往

2007年/日本
佐藤祐市監督


あらすじ:
自殺したアイドルは自殺じゃなくて他殺かもしれませんでした。


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私にとっての小栗旬はこの映画のイメージだ、と言うとビックリされます。
世間様では「クローズ」シリーズやら「ごくせん」やらのイメージが小栗旬のパブリックイメージというか、よくやる役柄らしいですね。私どれも観てませんので全然ピンときてないのですが、どうやらとっぽい兄ちゃんなんだなと。むしろこちらの方が驚きなんですが。
邦画をあまり観ないせいもあって、私はこの映画の影響で小栗旬は「朴訥で純真で不器用で真面目」みたいなイメージあったんだけども、その後いろんなところで彼を見かけるようになってからは、あらあら、まあまあ……とっぽいわ……騙されたわ……という気持ちになりました。
誰も騙してなんかないけども。
とっぽいて。
もちろん今となっても小栗旬は好きです。良い俳優よね。

ともかく今これを振り返ってみると、小栗旬って幅の広い俳優なんだなあって凄く感心するわけです。

「意外だわあ」というのは小栗旬に限った話ではなく、この映画観てると「塚地無我って演技うまいんだなあ!」とか「香川照之ってこんなこともすんのなあ!」とか、いちいち俳優の意外性にびっくりできるんですよね。絶妙。キャスティングがとても絶妙です。
香川照之に至っては「ゆれる」を観てからこの「キサラギ」を観ると謎のショックを受けることができます。何か分からないけど何かを確実に失った気持ちになれます。

2015年現在の今となっては彼らの意外性にもだいぶ慣れてきましたけども、2007年だから……8年前か、8年前観た時には本当に新鮮に映りました。

この映画、私の大好きな密室劇なんですけども、やっぱり密室劇って飽きない。ワンシチュエーションゆえに工夫して観客を楽しませようとしているのが見える映画ってとても良いですね。

内容的には、一年前に亡くなった、売れないアイドルの一周忌のためにオフ会に集まってきたオタク共5人の中に、実はアイドルを殺した犯人がいる…?というお話なのですが、あらすじで受ける印象ほどあんまり深刻じゃない。出てくるキャラクターがどこかみんな抜けてるのもあるし、まず死んだアイドルがもう、「そりゃ売れねえわ」感が物凄くてその時点でなんか、悲しみ切れないんですよね。こういうところうまいと思う。現実だったらそんな事言えないんだと思うんだけど、この子ほんと、本当に残念な子で、そこ含めてすべてこのファンたちに愛されてるのが分かっちゃって、「殺されたから可哀想だ」みたいな感じがとても薄い。なんかこう、「何もないところでつまづいてころんだら、なぜか足じゃなくて肋骨の骨にヒビ入ってた、可哀想」みたいな、同情はするけど不思議なおかしみがあるくらいのライトさで彼女の死を捉えちゃうんですね。
一応サスペンスだとは思うんですが、そのせいであんまり緊張せずに観ることができます。

この映画観てると、この人たち現場ですごく仲が良いんだろうなあっていうのが窺えるんですよね。男ばっかりで登場人物も少ないからかもしれませんが、連帯感がスクリーンから滲み出ている感じ。対立してたとしてもある種の信頼感が見える気がします。多分、ラストのせいもあると思うんだけど。
大の大人が売れないアイドルを本気で好きだっていうの、本当に面白いですよね。アイドルに限らず、飼っている犬や猫や、愛でている観葉植物や、そういった愛するものの前でメロメロになっている人の様子って、距離を置いた人からすると大変滑稽でおかしく見えたりするものです。私もよくいろんなものを愛して気が狂っている様を「面白い」と評されることがあります。余計なお世話だよ。
でもそういう風に好きなもののために満面の笑み浮かべて一生懸命右往左往している人を見るのって、すごくあったかい気持ちになりますね。サスペンスですけど、すごくハートウォーミングでもあります。あたたかい気持ちになりたい時にはぜひおすすめです。
でもまあひとつだけ、スタッフロール最後のおまけは絶対蛇足だと思うよ。


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2015年8月4日火曜日

フォレスト・ガンプ/一期一会……恋愛も虐待も戦争も全部チョコの中

1994年/アメリカ
ロバート・ゼメキス監督


あらすじ:
ちょっとだけシンプルにできた人間のちょっとだけ複雑な人生を追ってみます。


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少々体調を崩しておりました。
夏場の暑さにはどうも弱く、毎年毎年体調を崩している気がします。皆さんもご自愛ください。
体調を崩すとなんだか優しい映画が観たくなります。そんなわけでこんなド王道の映画をチョイスしたわけですが、何を今更、感ありますね。ありますけど、逆にもう、観てない人もいるかなと思いまして。なんせ20年前の映画だもの。ねえこれガンプの子供役にハーレイ・ジョエル・オスメントが出てんだけどさ、20年前の映画に出てたって言うのが衝撃受けるよね。えっだってシックスセンスでも子供だったじゃん、何言ってんのとか思うんだけど、シックスセンスも90年代の映画だって言うね。ワーオ!昭和は遠くになりにけり!平成の映画だけど!
今現在のハーレイ坊や知ってる?夏場の暑さとは関係なく再び体調崩せるレベルで面影がないというか、面影はばっちりあるのにそのまま小汚いおっさんになったというか、とにかくもう、切なさだけが夏の終わり級なので、心臓の強い方は是非検索してみてください。

先ほど「優しい映画を観たい」といいましたが、この映画の中で起きていることは実はちっとも優しくない。幼馴染の少女の身に降りかかる虐待だとか、普通学級にガンプをねじ込むために担任教師と寝る母親だとか、戦争で死ぬ盟友だとか。だけどこの映画が人の心を優しくするのは、ひとえにフォレスト・ガンプが残酷だからです。
残酷とは何を言いだすのか、彼は心優しい人間だ……という意見はごもっとも。彼は非常に優しい人間です。虐待される幼馴染の少女の身を案じることができるし、母親を愛しているし、盟友のために絨毯爆撃を受けるジャングルの中を迷わず走り出すことが出来ます。
でも彼は本質的に何が起きているのかを知りません。母親が自分のために何をしたのか、少女はどんな仕打ちを受けたのか、戦争とは何か。ちょっとだけIQが平均値を下回っているせいで、いや、おかげで、彼はどんな深刻な局面も「人生はチョコレートの箱のようなもの」とばかりに軽やかに切り抜けていきます。辛い状況に立たされても笑っていられる事、平常心でいられる事。これが出来る人間は強い人間であり、そこにユーモアを生み出すことが出来ます。
だけど、じゃあそれは、戦争で死んでいく兵士の視点から見て彼は「優しい人間」でしょうか?母親が犠牲になったことを知らずにいる彼は優しいでしょうか?虐待を受けた彼女の本当の痛みのかけらも知ることもない彼は?
彼の立ち振る舞いは非常にユーモラスで、時に人を優しい気持ちにします。しかしそのユーモアは残酷と共にある。彼の目線から外れたところで人は死に、泣いている。フォレスト・ガンプはそう言った悲哀が割と容赦なく描かれていると思います。

一方で、じゃあ、彼の鈍感さ、残酷さに救われた人はいなかったか?といえば、そんなことは決してないのです。
ダン中尉は戦争で身体に過酷なハンデを背負う羽目になり、そんな自分を救ったガンプを殺す勢いで憎みますが、最終的には穏やかな人生を得ることができます。ダン中尉かっこいい。好き。
かつての幼馴染も、ガンプの元で幸せになる。彼の残酷さは、やはり優しさでもある訳です。
優しい事、残酷である事、それら両方によってユーモアが生まれる事。不思議な事ですがユーモアというのは一見両極端に見えるようなものから生まれ、その実同じ源流だって事があるってことなんですね。この映画って、だから、すごい不謹慎になりかねない。だけど絶妙なバランスで残酷さをユーモアに変えているんです。ガンプが、ばかだからと言ってしまえばそうかもしれないけれど。
人間ってもっと適当に生きていいってことだよね、と思います。どう生きても誰かにとって残酷になるし、誰かにとっての救いになる。だからもう、好きなように生きろ。思い通りにできる感情は自分のものしかないから、せめて自分は幸せに、なろう。そういう話だなあと。
それはそうとダン中尉かっこいい。何度でもいう。かっこいい。
ゲイリー・シニーズ好きなんです……。もう御年60歳ですって。はあー。いい。許す。好き。

最終的に癒されるかと言うと、まあ、どうでしょう?今回の紹介通り、実はベトナム戦争前後のヘヴィな時代背景だから、重たく見ようと思えば見れちゃうわけです。でもさすがだよね、さすがバック・トゥ・ザ・フューチャーの監督だよね。やっぱりすごくライトに見れるんだよね。そして優しい気持ちにもさせられる。ゼメキス・マジック。
良い事も悪い事も、色んな事がごたごたと、チョコレートの箱の中みたいにバラエティに富んでいるけど、やっぱり最終的には甘いんだね。生きていればいいことあるよ。そういうメッセージなんだね、と思います。なんだかんだ言ったけど、それでいいんだよ。そうやって幸せになれば。
言わずもがなですが、とても良い映画だと思います。
そしてもう一回言っておこう。ダン中尉超かっこいい。最後に捕まえる嫁さん不細工なのがまた良い。(辛辣


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2015年7月27日月曜日

フォーン・ブース……これは良い困り眉映画

2002年/アメリカ
ジョエル・シュマッカー監督


あらすじ:
コリン・ファレルが己の眉毛を最大限に活かして困ってます。


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ワンシチュエーションものです。私ワンシチュエーションものって好きなんですよね。なんででしょうね?なんか、「ワンシチュエーションものは場面転換が無いためダレがちだがこの映画は面白い」とか言う紹介文をよく見かけると思うんですけど、その「ダレがちのワンシチュエーション映画」というものを私あんまり観た覚えがないんですよね。あるのか?そんなの。
ワンシチュエーションものは「場面転換がないからダレがち」っていうのが制作側が作る前からわかってる事なので、普通の映画よりも工夫するよう、すごく神経質に作ってると思うんですよね。大金はたいて作られた下手な長編大作よりも観て失敗したって思うことが少ない気がする……けども。どうなんでしょう。まだまだ映画界は広いから、一概には言えませんけどもね。私の好きなシチュエーション映画は、たくさんありますけども、邦画なら「キサラギ」で洋画なら「キューブ」ですかね。

パッケージで見てるとなんかコリン・ファレルって伊藤英明にちょっと似てるな。
実際のところはすごいいい困り眉俳優だと思うんです。私の中に「困り眉俳優」というジャンルがありまして、作品や演技を越えてなぜかいつも気になってしまう俳優がいるんですよね。コリン・ファレルはそんな私が決めた「三大困り眉俳優」の中の一人です。ちなみにもう二人はラッセル・クロウとシャイア・ラブーフな。
左の画像もなかなかいい困り眉してるよね。なんか卑怯なくらい困ってる顔してるよね。なんだかそれだけでちょっとおかしいっていうのが引っかかってしまうんだろうなあ。困ってない時でも困った顔してるのが面白いし、困った状況で困った顔してんのもなおさら面白いし、出落ちにちょっと近いです。ずるいよ。
このコリン・ファレルは本当に困ってるんだけど、いっつも困った顔してるから「またまたー演技なんでしょ?」とか言いたくなる。ずるいよ。
良い演技してるのに困り眉が純粋な映画鑑賞の邪魔をしてるとも言える。

フォレスト・ウィテカーも良い俳優ですよね。気づくとよく「善良な黒人」の役で出ている気がする。この人は裏表のない善い人間という役をよくやるなーって印象です。なんででしょうね。
サミュエル・L・ジャクソンとかローレンス・フィッシュバーンとかは悪い黒人役すごく合う気がするけど、この人はあんまり想像できない。

映画作品自体は、オチが先にありきだったんだろうなあと言う感じであまりにも「動機とかはまあどうでも良いじゃない!意外だったでしょ?」感があふれていて「あまり客をなめるなよ…」という気もしないでもないんですが、確かに意外ではあります。ありますが、パッケージのキャスト一覧でもう犯人分かるって言うかね。私が「おっ、あの人でてる」って注目してしまったっていうのもあると思うんですけど。監督もキャスティングの意外性を狙ったらしいんですけど。それならそれなりに理由づけしてよ。ワンシチュエーション映画の「キューブ」とかはさ、なんでそんな部屋を用意したのかなんてことは問題ではないんだなっていう作り方をしてるわけですが、「犯人の動機は問題ではないんだな」と思わせたいならそういう作り方をするべきだなーと思います。これではただ作りこみが甘いだけではないかと。思ってしまいました。ちょっと辛口になってしまった。

それ以外の人の動きや心理戦などは面白かったです。それだけにね、ラスト丁寧に作ってほしかったなあって、残念に思うんですよね。コリン・ファレルは思う存分困ってるのでそれだけでも見る価値ありだと思いますので、私のような困り眉マニアにはイチオシです。
いるのかなあそんな人。でも本当だよ。


※今までタイトルでラベル作成していたんですが、これキリないな…と思ったんで私の独断でジャンル分けにちょいちょい変更していこうと思います。
今までのもちょっとずつラベル変更していく予定です。


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2015年7月25日土曜日

ゆれる……できる兄、できない弟/できない兄、できる弟

2006年/日本
西川美和監督


あらすじ:
兄が居合せた吊り橋転落事故が、単なる事故ではないかもしれません。


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オダギリジョーは良い俳優ですね。日本の俳優には何故だか「さん」とつけたくなるんだけども、今までの記事では大体の俳優を呼び捨てにしていたはずなのでこれもそれに倣って……。

邦画はあまり観ない方なのですが、この映画は邦画の良い所が凄く出ている素晴らしい映画だと思います。「私は今こう思っている」と口に出すことによって消えていく、それだけではない思いを表現するのって、ハリウッド映画ではなかなかお目にかからないと思うんですよね。
弟の抱える気持ちはもちろん、「兄を助けたい」だけれども、決してそれだけではない。被害者への決して優しくない思い、打算、薄汚い気持ち。「兄を助けたい」事は真実なんだけど、それによって覆い隠した何かがこちらをじっと見ているようで、居心地の悪い思いをするオダギリジョーに、他人事ではない後ろめたさを感じます。
誰しも大なり小なり、大義名分を掲げたその陰に、打算を抱えているのではないかと自問自答したこと、あると思うんです。
自分が兄を助けたいのは、犯罪者の家族を持ちたくないからか。
兄を告発する事は、被害者と通じていたことを知られたくないからか。
助けたい。身内から犯罪者を出したくない。
どちらも矛盾しない考えだと思うんです。同時にあってもいいと思うんですね。
だけど実際その状況に陥った時、どちらかの選択をする事に後ろめたさを感じない訳にはいかない。
人は多面的な生き物であり、簡単に善と悪に分かれたりはしていない。
邦画はこういう、グレーの部分、マーブルの部分を描ききる事が非常に上手な監督が多いという印象があります。

基本的にこのお話は弟ことオダギリジョーに焦点が合っているので、観客は彼の後ろめたさに共感し、その感情に引きずられると思うのですが、一方兄こと香川照之の事は、弟の目を通して見ているので何を考えているのかいまいち分からないことが多いんですね。
でもこれは弟の目を通しているからこそ、なんだろうと思うんです。
弟にとって兄は実直で、真面目で、いい加減に生きている自分とは正反対の兄を尊敬しながら、コンプレックスを感じてもいたのだと思います。いたずらに兄の好きな人を奪ってみたり、かと思えば兄の知らない、仄暗い面を見て動揺したり。
要するに、彼は彼のフィルターを通すことで、兄を冷静に見たことは一度もないのだと思います。
できる兄、できない弟とオダギリジョーは思っているけど、兄自身はできない兄、できる弟と思っている。このすれ違いにお互い気づけていない。

弟から見た兄、世間から見た兄を演じ続けた香川照之は、本当は怒ったり悲しんだり悔しんだりする、そんなみっともない部分もちゃんと持ち合わせた一人の人間であることを軽んじられてきたのかなあと思うんですね。彼にもいろんな感情があり、弟を妬ましく思っていたり、恥をかくのが嫌だったり、閉塞的な田舎の中で善い人間であろうと背伸びしたり……。
彼が不可解に笑みを浮かべるシーンが数か所あるのですが、そう考えてみると、変な話だけれどもその瞬間彼は、初めて彼を認めてもらった実感を得たのかもしれません。
その証言が彼を不利にするとしても、「人を恨む気持ちさえ当たり前に持ちあわせている人間です」と、面前で言ってもらえたことは彼の救いになったのかもしれません。弟にどんな思惑があったんだとしても。

その一方で、兄は本来の優しい兄でもあった。その事に矛盾はなかったんです。弟が、自分に火の粉が降りかかるのは面倒だと思ったのと同時に、兄を助けたかったという思いを持っていたことに矛盾はないように。
恥をかいて惨めな思いを抱え激情する人間であったと同時に、人に対して思いやりのある人間であることに矛盾はなかった。
言葉にならない何かを兄と弟はやりとりして、それぞれに何かを受け取って、最後に兄は笑みを浮かべる。
この繊細な人間の感情のゆらぎを、オダギリジョーと香川照之は完璧に演じきっていることに感動します。言葉にならないもの、顔に出ないもの。それを表現するって凄いよなあ。

この監督、制作協力ですが「そして父になる」にも関わっているそうで。未見なんですよね。あれもまた繊細な題材だったなあ。機会があったら見てみようと思います。
日本にはいい役者が沢山いるなあ!


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2015年7月21日火曜日

愛してる、愛してない… ……好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは

2002年/フランス
レティシア・コロンバニ監督


あらすじ:
「アメリ」をシャレにならない感じで描いてみたらこうなりました。


※若干ネタバレしています。


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タイプキャストで選ばれてしまったかな、と思いました。この人の朗らかに人を侵食していく感じ、アメリで本当に上手だったからキャスティングされたのかなって。

オドレイ・トトゥって「ダヴィンチ・コード」の頃「女優をやめたいと思ってたけど今作は楽しかったからまだ続けようかな」という旨の話をインタビューでしてたな、やっぱそれまで「アメリ」の役に引きずられていたのかな、って思ってたんだけど、今調べてみたら別に全然そんな事は言ってなくて、割とコンスタントに「女優辞めてえ」って言ってるみたいですね。あらあら。まあまあ。

今作はいわゆる「信頼できない語り手」というやつです。この手法、最近では「ゴーン・ガール」で見かけました。ゴーン・ガールもこちらも、割と序盤で答え合わせが始まりますが、ゴーン・ガールは夫が困惑している様子を観客は間近に見ているため、一方的に妻の肩を持とうとは思えない構成になっています。一方今作は「何かおかしい」とは思いますが、概ね円満な人間関係に見えるので、観客は嫌な緊張感は保ちながらもキュートで一途なオドレイの肩を持ちがちになるわけです…が、やっぱ嫌な緊張感はあるから、後半の答え合わせで「うお…っ」ってなりつつも、「あーアメリの人だもんなー」てなんか、安心するんですよね。オドレイはそうでなくっちゃね、というか。アメリなんか目じゃないほどサイコ野郎ですけども。

結局彼女は恋をしていたのでしょうか?彼でなければならなかった理由は何なんでしょうか。
この手の映画では考えるだけ無駄なテーマではありますが、「本当に彼でなければならなかったのか、彼でならなければいけなかったきっかけは本当に恋に堕ちるに値するのか」って、別段妄想癖の強い彼女だけの問題ではないと思うんですよね。
彼女を慕うボーイフレンドもいながら、妻子持ちの大人の男性に入れあげてしまうそれは、満たされなかった父性愛を彼に求めているようにも見えますし、愛とは何かを知らないという風にも見えます。愛って何って言われると、誰だってむずかしいと思うけどね!
誰かを妄執的に愛することを正当化するわけではありませんし、このオドレイはマジで怖いんだけど、彼女のこれを「恋じゃねえ…」って思った時、じゃあ本当の恋ってなんだろね?ってちょっと、考えさせられる作品でもあります。
誰かにとってそれが恋なら、誰が何と言おうと、恋なんだろうけど。もやっとするね。

このお話って、後半が全部ネタばれにつながるのでうまく言えないのが歯がゆいのですが、ひとつだけ。
ラストは総毛立ちます。これからの暗澹たる展開の可能性が見えるラストなんですね。
問題なのは彼女が部屋に残したアートなんですけど、そのアートを清掃業者がふんっ、と鼻で笑って取り壊していくわけです。
いやいやいやあんたよく笑えるな、と。おいおいおい、と。
オドレイもよっぽどだけども、この清掃業者の判断力にも背筋凍るものがありました。この人は一体、どれほどの「治ってない人たち」を見送ったんだろう。分かっていながら野に放ってきたんだろう。
自分に被害が及ばない所で人って言うのはどれほど残酷になれるかっていうのもラストの怖さの一つだと思います。オドレイ自身については、まあ、ねえ。そりゃそうなんじゃない?って感じがしました。「あたし更生しました」とか言われたってとても信じれたもんじゃねえや。


余談ですが、余談多いなこのブログ。で、ですが、オドレイ・トトゥって最近中島みゆきに似てきたなーと思ってググってみたら割とそう思ってる人がいたみたいで、ちょっと、おーってなったんですけど、それよりも「オドレイ・トトゥと鈴井貴之が似ている」って思ってる人も割といて、う、うお……なんか…おお…ってなりました。頭の悪い感想だな…。ミスターなあ。似てるかなあ?


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2015年7月18日土曜日

LEGO ムービー……ディストピアの中心で「すべては最高!」と叫ぶ

2014年/アメリカ
フィル・ロード、クリストファー・ミラー監督


あらすじ:
平凡な青年が類稀なる平凡力で世界を救おうとします。

※ちょっとネタバレしてるかもしれません。


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語り部が能天気だと、どんな景色も楽しく見えたりします。例えば「フォレスト・ガンプ」は、周囲で起きている事が割とシビアでヘヴィだったりしますが、主人公の頭がちょっとだけシンプルなばかりに「ちょっと大変だったけどまあ考え込むほどでもないよね」という気持ちであらゆる出来事を見ていられます。いや実際、結構ヘヴィなんだけどね。いじめられたり、戦争があったり。
シンプルに生きるという事は時に愚かに見えますが、時にとても賢かったりするものです。難しく考えていた事でも、考え抜いた先に得た答えは案外シンプルだったりするように。

LEGOの主人公もまたとてもシンプル。LEGOなだけあって造詣もシンプル。
「こんな平凡すぎる人が世界を救っていいの…?」ってちょっと不安になったりもするけど、それだけにすごく応援したくなるし、とっても可愛らしくてニコニコしてしまうんですよね。

ぱっと見のお話は「トイ・ストーリー」に似てるかもしれません。向こうも人形だし。でも私はそれよりも「マトリックス」に似てると思います。トイ・ストーリーは「自分たちは人間たちに遊ばれるためのおもちゃ」という自覚を持っていますが、LEGOの世界に住む人たちは「LEGOで遊ぶ人間」の事を知りません。どうやら次元が違うようです。自分たちの世界の外にまだ世界が広がっていることを知らないんですね。そして恐ろしく統制された世界で、統制されていると分からずに力の限り楽しんで生きています。テレビのチャンネルは一つしかないし、ヒット曲も一つしかない。すべてにマニュアルがあって、毎日同じことを繰り返して生きている。
傍から見ているとどっからどうみてもディストピアなんだけど、LEGOの住人はすんんんごく幸せそうです。今までのディストピア映画って、自由のない世界の絶望感をいかに表現するかに力を入れてると思うんだけど、この映画はなんかもう「ディストピアでーす!ヘーイ!Fooooo!!!」ぐらいのノリ。そんなこと知らないし、それがどうしたという底抜けの明るさで、どんな時でもただただ笑っちゃうんですね。ディストピアだと分かった後でも主人公は底抜けにハッピーな感じ。こういうディストピア映画もありなんだなと思いました。ちょっと、新しい。

この世界の良い所って、ディストピアとか割とハードな世界観していながら本当、平和ってところ。誰も死なないんですよね。最悪動けなくされちゃうだけで、バラバラにされちゃったりする訳じゃない。それはこの世界を作る「上にいるお方」の世界観がそうさせている訳で、神様が優しいと世界は優しいのだな、とほっこりしたり。ディストピアだけど。

オリジナルキャラに加えて、バットマンやスーパーマン、ダンブルドアにガンダルフなどなど、レゴならではのキャラクターも登場したり、声優がモーガン・フリーマンだったりリーアム・ニーソンだったりチャニング・テイタムだったりして何気に豪華。個人的には日本語吹き替え版の主人公の声が森川智之さんなあたり嬉しさに身悶えるんですが(映画版「シャーロック・ホームズ」、ドラマ版「SHERLOCK」でともにワトソン役をしています)、私と同じようなツボをお持ちの方にもぜひおすすめします。いいよ……森川さん、いいよ……!!

アクションシーンにはマトリックスのスタッフが関わっているそうで、もうほんとすごい。レゴってこんな動くんだ!?ってくらい動きます。ちゃんと既存のパーツを使っていて、しかも人形の動きも可動範囲内なのが憎いね。

このお話って親子のあり方、っていうのもテーマにあったりして、子供から大人まであそべるレゴを題材にしているからこその語り口なのがとてもいいです。自由な発想で遊ぶ子供から、ルールを踏まえて遊ぶ大人の、共通言語としてのLEGO。親と子が分かりあう、繋がりあうことの大事さのメッセージが、嫌みなく伝わってきて最後はほろりとしました。誰にでも安心しておすすめできる良い映画です。エメットのドヤ顔がたまらなく好きだ。


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