1999年/アメリカ
デヴィッド・フィンチャー監督
あらすじ:
ストレス解消に殴り合うスポーツジムを始めたら、なんかテロリスト集団になってました。
※ネタバレあり。注意。
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ブラッド・ピットが好きです。好きでした。一時期ほどの熱が残っている訳ではないですが、今でも好きです。でもなんというか、ブラッド・ピットってあんまり良作に恵まれないような勝手なイメージ……。
ブラピが出ていると聞いて公開初日に映画館に走っては、いつも「ブラピが美しい映画だった」という感想だけを持ち帰る日々を繰り返していたことがあります。かっこいいんだけどね。それだけになんか、もったいない。ブラピ自身美しいと言われることに嫌気がさして、変に小汚い方向を目指した時期がありましたが、ひげ生やしたくらいでお前の美しさが損なわれると思ってるのか。ふざけないでください!という付け焼刃具合。もっとね!がんばってほしいの!できる子だと思うの!
今作はそんなブラピに辛口な私がマイ・ベスト・ブラッド・ピットと呼ぶ作品です。……でもねこれブラピが良かったというか、エドワード・ノートンが良かったんだよね。ブラピも良かったんだけど、それ以上にノートンが良かった。不遇。不遇なブラピ。
ノートン演じる主人公には名前がありません。便宜上ナレーターと呼ばれています。あるいは、「僕(I)」。
これは己の個性のなさを痛烈に嫌う彼の物語ゆえだと思います。
平凡なサラリーマンで、趣味や好みもなく、死んだように生きている自分の事を自分では嫌いだと言いきることもできない大変弱い人間です。本当は高級マンションに住んでいるし、そこそこのブランド物で身を固め、家具をそろえられるほどの財力があるのだから、そこに何かを見出してもいいはずなのに、彼はそれが出来なかった。
むしろ、そういうある程度のステータスを持っている事に優越感もないわけではない。そんなみみっちさにもまた嫌気がさす…という悪循環。
だから誰かのせいにして家ごと吹っ飛ばしちゃったのかな、と思いました。
自分の事が嫌いなのに、自分が嫌いだと認めることができない。好きになりたいのに、好きになれる手立てがない。タイラー・ダーデンは、ナレーターがつまらない人間であることを突き付けてくれた人でした。そしてそんな自分を好きになる方法も。それはものすごく振り切れた自己啓発法でしたが、ナレーターの心の隙間を確かに埋めてくれるものでした。ほんの一時ではありましたが。
何者にも成れないと思っている人間が、何者かに成れるかもしれないという希望にすがって、やはり何物にも成れないのではないかという絶望。タイラーの隣にいれば、自分も凄くなれる気がしたのに、当然ながらそうはならなかった。
タイラーの意思は彼の意志でもあるはずで、だから、テロに走った行為もまた、ナレーターの意思であったはずです。でも彼はそれを拒んだ。やっと、自分の好きと嫌いが分かってきたんですね。ここまできてやっと分かった。
目まぐるしい展開の割に、結局特に何が好転するわけでもなく話はラストに辿り着きます。でもナレーターはおそらくもう、不眠症に悩まされることはないでしょう。そもそも今後まともに生活できるのかも分かりませんが。
彼が欲していたものは「個性」というシンプルなものでした。
何でもできた、確かに何者かになっていたタイラーが彼の中にあったという事実は、変な話ですが彼の自信になったのではないかな、と思います。大騒ぎして、犯罪まで起こして、得たかったものがそれ?という話になるかもしれないけれど、何も持たない、何者にも成れないという恐怖心は、充分人を狂わせるものだと思うのです。
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