2015年7月27日月曜日

フォーン・ブース……これは良い困り眉映画

2002年/アメリカ
ジョエル・シュマッカー監督


あらすじ:
コリン・ファレルが己の眉毛を最大限に活かして困ってます。


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ワンシチュエーションものです。私ワンシチュエーションものって好きなんですよね。なんででしょうね?なんか、「ワンシチュエーションものは場面転換が無いためダレがちだがこの映画は面白い」とか言う紹介文をよく見かけると思うんですけど、その「ダレがちのワンシチュエーション映画」というものを私あんまり観た覚えがないんですよね。あるのか?そんなの。
ワンシチュエーションものは「場面転換がないからダレがち」っていうのが制作側が作る前からわかってる事なので、普通の映画よりも工夫するよう、すごく神経質に作ってると思うんですよね。大金はたいて作られた下手な長編大作よりも観て失敗したって思うことが少ない気がする……けども。どうなんでしょう。まだまだ映画界は広いから、一概には言えませんけどもね。私の好きなシチュエーション映画は、たくさんありますけども、邦画なら「キサラギ」で洋画なら「キューブ」ですかね。

パッケージで見てるとなんかコリン・ファレルって伊藤英明にちょっと似てるな。
実際のところはすごいいい困り眉俳優だと思うんです。私の中に「困り眉俳優」というジャンルがありまして、作品や演技を越えてなぜかいつも気になってしまう俳優がいるんですよね。コリン・ファレルはそんな私が決めた「三大困り眉俳優」の中の一人です。ちなみにもう二人はラッセル・クロウとシャイア・ラブーフな。
左の画像もなかなかいい困り眉してるよね。なんか卑怯なくらい困ってる顔してるよね。なんだかそれだけでちょっとおかしいっていうのが引っかかってしまうんだろうなあ。困ってない時でも困った顔してるのが面白いし、困った状況で困った顔してんのもなおさら面白いし、出落ちにちょっと近いです。ずるいよ。
このコリン・ファレルは本当に困ってるんだけど、いっつも困った顔してるから「またまたー演技なんでしょ?」とか言いたくなる。ずるいよ。
良い演技してるのに困り眉が純粋な映画鑑賞の邪魔をしてるとも言える。

フォレスト・ウィテカーも良い俳優ですよね。気づくとよく「善良な黒人」の役で出ている気がする。この人は裏表のない善い人間という役をよくやるなーって印象です。なんででしょうね。
サミュエル・L・ジャクソンとかローレンス・フィッシュバーンとかは悪い黒人役すごく合う気がするけど、この人はあんまり想像できない。

映画作品自体は、オチが先にありきだったんだろうなあと言う感じであまりにも「動機とかはまあどうでも良いじゃない!意外だったでしょ?」感があふれていて「あまり客をなめるなよ…」という気もしないでもないんですが、確かに意外ではあります。ありますが、パッケージのキャスト一覧でもう犯人分かるって言うかね。私が「おっ、あの人でてる」って注目してしまったっていうのもあると思うんですけど。監督もキャスティングの意外性を狙ったらしいんですけど。それならそれなりに理由づけしてよ。ワンシチュエーション映画の「キューブ」とかはさ、なんでそんな部屋を用意したのかなんてことは問題ではないんだなっていう作り方をしてるわけですが、「犯人の動機は問題ではないんだな」と思わせたいならそういう作り方をするべきだなーと思います。これではただ作りこみが甘いだけではないかと。思ってしまいました。ちょっと辛口になってしまった。

それ以外の人の動きや心理戦などは面白かったです。それだけにね、ラスト丁寧に作ってほしかったなあって、残念に思うんですよね。コリン・ファレルは思う存分困ってるのでそれだけでも見る価値ありだと思いますので、私のような困り眉マニアにはイチオシです。
いるのかなあそんな人。でも本当だよ。


※今までタイトルでラベル作成していたんですが、これキリないな…と思ったんで私の独断でジャンル分けにちょいちょい変更していこうと思います。
今までのもちょっとずつラベル変更していく予定です。


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2015年7月25日土曜日

ゆれる……できる兄、できない弟/できない兄、できる弟

2006年/日本
西川美和監督


あらすじ:
兄が居合せた吊り橋転落事故が、単なる事故ではないかもしれません。


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オダギリジョーは良い俳優ですね。日本の俳優には何故だか「さん」とつけたくなるんだけども、今までの記事では大体の俳優を呼び捨てにしていたはずなのでこれもそれに倣って……。

邦画はあまり観ない方なのですが、この映画は邦画の良い所が凄く出ている素晴らしい映画だと思います。「私は今こう思っている」と口に出すことによって消えていく、それだけではない思いを表現するのって、ハリウッド映画ではなかなかお目にかからないと思うんですよね。
弟の抱える気持ちはもちろん、「兄を助けたい」だけれども、決してそれだけではない。被害者への決して優しくない思い、打算、薄汚い気持ち。「兄を助けたい」事は真実なんだけど、それによって覆い隠した何かがこちらをじっと見ているようで、居心地の悪い思いをするオダギリジョーに、他人事ではない後ろめたさを感じます。
誰しも大なり小なり、大義名分を掲げたその陰に、打算を抱えているのではないかと自問自答したこと、あると思うんです。
自分が兄を助けたいのは、犯罪者の家族を持ちたくないからか。
兄を告発する事は、被害者と通じていたことを知られたくないからか。
助けたい。身内から犯罪者を出したくない。
どちらも矛盾しない考えだと思うんです。同時にあってもいいと思うんですね。
だけど実際その状況に陥った時、どちらかの選択をする事に後ろめたさを感じない訳にはいかない。
人は多面的な生き物であり、簡単に善と悪に分かれたりはしていない。
邦画はこういう、グレーの部分、マーブルの部分を描ききる事が非常に上手な監督が多いという印象があります。

基本的にこのお話は弟ことオダギリジョーに焦点が合っているので、観客は彼の後ろめたさに共感し、その感情に引きずられると思うのですが、一方兄こと香川照之の事は、弟の目を通して見ているので何を考えているのかいまいち分からないことが多いんですね。
でもこれは弟の目を通しているからこそ、なんだろうと思うんです。
弟にとって兄は実直で、真面目で、いい加減に生きている自分とは正反対の兄を尊敬しながら、コンプレックスを感じてもいたのだと思います。いたずらに兄の好きな人を奪ってみたり、かと思えば兄の知らない、仄暗い面を見て動揺したり。
要するに、彼は彼のフィルターを通すことで、兄を冷静に見たことは一度もないのだと思います。
できる兄、できない弟とオダギリジョーは思っているけど、兄自身はできない兄、できる弟と思っている。このすれ違いにお互い気づけていない。

弟から見た兄、世間から見た兄を演じ続けた香川照之は、本当は怒ったり悲しんだり悔しんだりする、そんなみっともない部分もちゃんと持ち合わせた一人の人間であることを軽んじられてきたのかなあと思うんですね。彼にもいろんな感情があり、弟を妬ましく思っていたり、恥をかくのが嫌だったり、閉塞的な田舎の中で善い人間であろうと背伸びしたり……。
彼が不可解に笑みを浮かべるシーンが数か所あるのですが、そう考えてみると、変な話だけれどもその瞬間彼は、初めて彼を認めてもらった実感を得たのかもしれません。
その証言が彼を不利にするとしても、「人を恨む気持ちさえ当たり前に持ちあわせている人間です」と、面前で言ってもらえたことは彼の救いになったのかもしれません。弟にどんな思惑があったんだとしても。

その一方で、兄は本来の優しい兄でもあった。その事に矛盾はなかったんです。弟が、自分に火の粉が降りかかるのは面倒だと思ったのと同時に、兄を助けたかったという思いを持っていたことに矛盾はないように。
恥をかいて惨めな思いを抱え激情する人間であったと同時に、人に対して思いやりのある人間であることに矛盾はなかった。
言葉にならない何かを兄と弟はやりとりして、それぞれに何かを受け取って、最後に兄は笑みを浮かべる。
この繊細な人間の感情のゆらぎを、オダギリジョーと香川照之は完璧に演じきっていることに感動します。言葉にならないもの、顔に出ないもの。それを表現するって凄いよなあ。

この監督、制作協力ですが「そして父になる」にも関わっているそうで。未見なんですよね。あれもまた繊細な題材だったなあ。機会があったら見てみようと思います。
日本にはいい役者が沢山いるなあ!


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2015年7月21日火曜日

愛してる、愛してない… ……好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは

2002年/フランス
レティシア・コロンバニ監督


あらすじ:
「アメリ」をシャレにならない感じで描いてみたらこうなりました。


※若干ネタバレしています。


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タイプキャストで選ばれてしまったかな、と思いました。この人の朗らかに人を侵食していく感じ、アメリで本当に上手だったからキャスティングされたのかなって。

オドレイ・トトゥって「ダヴィンチ・コード」の頃「女優をやめたいと思ってたけど今作は楽しかったからまだ続けようかな」という旨の話をインタビューでしてたな、やっぱそれまで「アメリ」の役に引きずられていたのかな、って思ってたんだけど、今調べてみたら別に全然そんな事は言ってなくて、割とコンスタントに「女優辞めてえ」って言ってるみたいですね。あらあら。まあまあ。

今作はいわゆる「信頼できない語り手」というやつです。この手法、最近では「ゴーン・ガール」で見かけました。ゴーン・ガールもこちらも、割と序盤で答え合わせが始まりますが、ゴーン・ガールは夫が困惑している様子を観客は間近に見ているため、一方的に妻の肩を持とうとは思えない構成になっています。一方今作は「何かおかしい」とは思いますが、概ね円満な人間関係に見えるので、観客は嫌な緊張感は保ちながらもキュートで一途なオドレイの肩を持ちがちになるわけです…が、やっぱ嫌な緊張感はあるから、後半の答え合わせで「うお…っ」ってなりつつも、「あーアメリの人だもんなー」てなんか、安心するんですよね。オドレイはそうでなくっちゃね、というか。アメリなんか目じゃないほどサイコ野郎ですけども。

結局彼女は恋をしていたのでしょうか?彼でなければならなかった理由は何なんでしょうか。
この手の映画では考えるだけ無駄なテーマではありますが、「本当に彼でなければならなかったのか、彼でならなければいけなかったきっかけは本当に恋に堕ちるに値するのか」って、別段妄想癖の強い彼女だけの問題ではないと思うんですよね。
彼女を慕うボーイフレンドもいながら、妻子持ちの大人の男性に入れあげてしまうそれは、満たされなかった父性愛を彼に求めているようにも見えますし、愛とは何かを知らないという風にも見えます。愛って何って言われると、誰だってむずかしいと思うけどね!
誰かを妄執的に愛することを正当化するわけではありませんし、このオドレイはマジで怖いんだけど、彼女のこれを「恋じゃねえ…」って思った時、じゃあ本当の恋ってなんだろね?ってちょっと、考えさせられる作品でもあります。
誰かにとってそれが恋なら、誰が何と言おうと、恋なんだろうけど。もやっとするね。

このお話って、後半が全部ネタばれにつながるのでうまく言えないのが歯がゆいのですが、ひとつだけ。
ラストは総毛立ちます。これからの暗澹たる展開の可能性が見えるラストなんですね。
問題なのは彼女が部屋に残したアートなんですけど、そのアートを清掃業者がふんっ、と鼻で笑って取り壊していくわけです。
いやいやいやあんたよく笑えるな、と。おいおいおい、と。
オドレイもよっぽどだけども、この清掃業者の判断力にも背筋凍るものがありました。この人は一体、どれほどの「治ってない人たち」を見送ったんだろう。分かっていながら野に放ってきたんだろう。
自分に被害が及ばない所で人って言うのはどれほど残酷になれるかっていうのもラストの怖さの一つだと思います。オドレイ自身については、まあ、ねえ。そりゃそうなんじゃない?って感じがしました。「あたし更生しました」とか言われたってとても信じれたもんじゃねえや。


余談ですが、余談多いなこのブログ。で、ですが、オドレイ・トトゥって最近中島みゆきに似てきたなーと思ってググってみたら割とそう思ってる人がいたみたいで、ちょっと、おーってなったんですけど、それよりも「オドレイ・トトゥと鈴井貴之が似ている」って思ってる人も割といて、う、うお……なんか…おお…ってなりました。頭の悪い感想だな…。ミスターなあ。似てるかなあ?


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2015年7月18日土曜日

LEGO ムービー……ディストピアの中心で「すべては最高!」と叫ぶ

2014年/アメリカ
フィル・ロード、クリストファー・ミラー監督


あらすじ:
平凡な青年が類稀なる平凡力で世界を救おうとします。

※ちょっとネタバレしてるかもしれません。


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語り部が能天気だと、どんな景色も楽しく見えたりします。例えば「フォレスト・ガンプ」は、周囲で起きている事が割とシビアでヘヴィだったりしますが、主人公の頭がちょっとだけシンプルなばかりに「ちょっと大変だったけどまあ考え込むほどでもないよね」という気持ちであらゆる出来事を見ていられます。いや実際、結構ヘヴィなんだけどね。いじめられたり、戦争があったり。
シンプルに生きるという事は時に愚かに見えますが、時にとても賢かったりするものです。難しく考えていた事でも、考え抜いた先に得た答えは案外シンプルだったりするように。

LEGOの主人公もまたとてもシンプル。LEGOなだけあって造詣もシンプル。
「こんな平凡すぎる人が世界を救っていいの…?」ってちょっと不安になったりもするけど、それだけにすごく応援したくなるし、とっても可愛らしくてニコニコしてしまうんですよね。

ぱっと見のお話は「トイ・ストーリー」に似てるかもしれません。向こうも人形だし。でも私はそれよりも「マトリックス」に似てると思います。トイ・ストーリーは「自分たちは人間たちに遊ばれるためのおもちゃ」という自覚を持っていますが、LEGOの世界に住む人たちは「LEGOで遊ぶ人間」の事を知りません。どうやら次元が違うようです。自分たちの世界の外にまだ世界が広がっていることを知らないんですね。そして恐ろしく統制された世界で、統制されていると分からずに力の限り楽しんで生きています。テレビのチャンネルは一つしかないし、ヒット曲も一つしかない。すべてにマニュアルがあって、毎日同じことを繰り返して生きている。
傍から見ているとどっからどうみてもディストピアなんだけど、LEGOの住人はすんんんごく幸せそうです。今までのディストピア映画って、自由のない世界の絶望感をいかに表現するかに力を入れてると思うんだけど、この映画はなんかもう「ディストピアでーす!ヘーイ!Fooooo!!!」ぐらいのノリ。そんなこと知らないし、それがどうしたという底抜けの明るさで、どんな時でもただただ笑っちゃうんですね。ディストピアだと分かった後でも主人公は底抜けにハッピーな感じ。こういうディストピア映画もありなんだなと思いました。ちょっと、新しい。

この世界の良い所って、ディストピアとか割とハードな世界観していながら本当、平和ってところ。誰も死なないんですよね。最悪動けなくされちゃうだけで、バラバラにされちゃったりする訳じゃない。それはこの世界を作る「上にいるお方」の世界観がそうさせている訳で、神様が優しいと世界は優しいのだな、とほっこりしたり。ディストピアだけど。

オリジナルキャラに加えて、バットマンやスーパーマン、ダンブルドアにガンダルフなどなど、レゴならではのキャラクターも登場したり、声優がモーガン・フリーマンだったりリーアム・ニーソンだったりチャニング・テイタムだったりして何気に豪華。個人的には日本語吹き替え版の主人公の声が森川智之さんなあたり嬉しさに身悶えるんですが(映画版「シャーロック・ホームズ」、ドラマ版「SHERLOCK」でともにワトソン役をしています)、私と同じようなツボをお持ちの方にもぜひおすすめします。いいよ……森川さん、いいよ……!!

アクションシーンにはマトリックスのスタッフが関わっているそうで、もうほんとすごい。レゴってこんな動くんだ!?ってくらい動きます。ちゃんと既存のパーツを使っていて、しかも人形の動きも可動範囲内なのが憎いね。

このお話って親子のあり方、っていうのもテーマにあったりして、子供から大人まであそべるレゴを題材にしているからこその語り口なのがとてもいいです。自由な発想で遊ぶ子供から、ルールを踏まえて遊ぶ大人の、共通言語としてのLEGO。親と子が分かりあう、繋がりあうことの大事さのメッセージが、嫌みなく伝わってきて最後はほろりとしました。誰にでも安心しておすすめできる良い映画です。エメットのドヤ顔がたまらなく好きだ。


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2015年7月16日木曜日

メメント……悪意すらない残酷な世界の中で

2000年/アメリカ
クリストファー・ノーラン監督


あらすじ:
「俺は間違ってない」と言わんばかりの涼しい顔で面白いほど次々に地雷を踏んでいきます。


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ノーランが好きすぎて、今の今まで弊ブログにて触れることができませんでした。好きも行き過ぎるとまったく筆が進まなくなります。言いたいことが多すぎて。そして伝えられる技量が無さすぎて。まずは、まだ言語化できそうな「メメント」から取り掛かろうという魂胆なのですが、これもまあ自信がない。うまくやれるといいなあ。

いよいよレビューを書こうと決心し、色々と調べていたのですが、ノーラン監督って思った以上に若かったので度肝抜かれております。メメント撮った時って30歳だったんだね…?!主人公のガイ・ピアーズの方が年上じゃん……!!
しかもメメントの脚本は弟のジョナサン・ノーランと共同執筆で、その時のジョナサンは26歳です。うわあ、信じられん……なんて脳みその構造してるんだ彼らは……。

彼の映画が好きなもので、結構いろんなインタビューに目を通しているんですが、彼の姿を見かけるたび「サッカー代表の監督みたいだな…」と思います。あんまりいなくない?パリッとしたスーツでピッシーって決めて映画撮影してる人って。サッカー競技場のベンチそばに立たせてみたい。すごくしっくりくるに違いない。

役柄の内面を深く掘り下げ、過度に痩せたり太ったり、役柄と同じ環境に身を置いてみたりする事で、よりリアルを追及した演技を行う俳優を「メソッド俳優」と言いますが、ノーラン監督は「メソッド俳優」ならぬ「メソッド監督」であると私は思います。
どこまでも映画の世界観のリアルにこだわるその姿勢はもう狂気じみていて、ビルを破壊するのは当然やるし、雪崩も起こすし、一面のトウモロコシ畑を作るし、壊れた飛行機の半分を実際宙に吊るすし、なんでもリアルに再現しないと気が済まない非常にマッドなムービーメイカーです。
今作は2作目の監督作という事もあってまだそこまでの狂気は感じられませんが、それでも充分その片鱗をうかがわせます。
この頃のノーランは意図して撮影方法に叙述トリックを仕込んでると思うんですよね。この映画の場合そうならざるを得ないとも言えますが。でもそれにしたって最近の凝り方はベクトルが変わってきてる。「最近の映画残り方」については後日、その映画を紹介するときにでも触れるとして。
この映画の特徴である「主人公が10分前の記憶を失っていく」という性質上、重複するシーンがたびたび出てくるんですが、それらすべて一つのシーンを使いまわすのではなく、「人の記憶は曖昧だ」という事を表現するために若干演技を変えて撮り直されているのだとか。でもそんなの普通気づかないよね!きがくるってる!
よく見ているとサブリミナル効果も仕込まれていたりして、映画表現を模索する若かりしノーランがそこかしこにうかがえます。

当然ながら観ている私たちは記憶を失わない訳で、主人公であるガイ・ピアーズが記憶を失って頓珍漢な行動を起こす事にちょっとおかしみすら感じてしまうんですが、この映画の怖い所って「実は主人公を翻弄している周りの人間は特に悪意がある訳ではない」というところだと思うんですね。
悪意があればまだいいと思うんです。でもガイ・ピアーズが体中に入れ墨掘るほど必死になってる事なんて、みんな知ったこっちゃないんです。悪意がない代わりに好意もない。本質的に全く興味を持ってないんですよね。キャリー・アン・モスは本作で一番「悪意」に近い行動をとる人ですが、ガイ・ピアーズの病気を知って怒りの半分くらいを挫かれてると思うんです。その上で、復讐から、彼を利用する方向にシフトする。彼女の行動は悪意だけでは説明がつかない冷静さがあると思います。
周囲の、特に危害を加えられていない人たちも、ガイ・ピアーズに同情する顔で平気で利用する。そこにやっぱり、悪意はないんですよね。そこには純粋な無関心があるだけ。それはかつての、病気を患う前のガイ・ピアーズそのものでもありました。当時の彼も悪意なく誰かを追い詰めた事を覚えている。その事に今までは関心を払わずに生きていた。それがここにきて、無意識化で芽を出して、彼の心を蝕んでもいます。
物事の大小はあれど、人というのは自分自身に精一杯で、つい図らずに人を蹴落とす行動をとるということは多分にあると思うんです。時にそれは許されないことでもありますが、誰しも視野が狭くなり他人を思いやれなかったことがあるはず。彼を責められる人なんてそうはいないんじゃないでしょうか。そしてもちろん、彼の周囲の無関心な人々に対しても。
無関心は巡り巡って人を殺すんですね。物理的にも、心理的にも。そういった寒々しさがこの映画の全体的な空気を覆っています。

私が観た中ではこれが一番古いノーラン監督作品ですが(フォロウィングは未見です。結構幻のフィルム扱いされていますね)、この頃の作品って基本的に救いがあまりない。メメントもどこまで行っても袋小路の映画ですが、逆に最近の作品は、絶望的な状況から希望を見出すラストにつながるものが多いように思います。ノーランの心境の変化なんですかね。救われた気持ちになりたいなら新しめの作品をお勧めしますが、粗削りだけど骨太で荒涼とした作品を見たいならぜひ、メメントをどうぞ。


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2015年7月15日水曜日

シャーロック・ホームズ……脳筋シャーロックと格好良いハゲ2大巨塔夢の競演

2009年/アメリカ
ガイ・リッチ―監督


あらすじ:
脳みそ筋肉寄りのシャーロックが推理そこそこに敵をなぎ倒します。


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一時期ミュージック・クリップ畑から映画畑に転身する監督が多かったように思います。スパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリー、そして今作の監督、ガイ・リッチー。
音楽畑からやってきた監督って一様に共通の特徴がありますよね。普通の監督って編集した映像に音楽を載せていくと思いますが、音楽畑からやってきた監督は、音楽に合わせて映像を編集します。アプローチが逆なんですね。そのため非常にリズミカルでテンポの良い映画になることが多いです。

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」や「スナッチ」なんかもすごくリズミカルで、ガイ・リッチーって映画ファンって言うより音楽ファンとか、なんというか「ヴィレッジ・ヴァンガードが好きな層」あたりに受けてた監督だと思うんです。伝わる?これ。サブカルの表層をなぞったような層というか。映画そのものよりおしゃれな映画のポストカードを買ってウォールポケットに並べて入れるのが好きな層というか。
恥ずかしながらかくいう私も、一時期その層をなす一部を担っておりましたので、御多分に洩れずガイ・リッチ―が好きでした。でもねえ、ガイ・リッチーって単館系っていう感じが否めなかったの。一部に人気はあったけど、雰囲気オシャンティ映画で内容は二の次って感じだったので、ロバート・ダウニー・Jr!ジュード・ロウ!極め付けにシャーロック!!なんてビッグキャストにビッグタイトルで、大丈夫かおい、と。ガイ・リッチー大丈夫かと。日和ったんじゃないかと。心配したものです。

「メジャーシーンに躍り出た=日和った」かどうかはまあさておいて、実際劇場に足を運んでみれば心配することもなくちゃんと万人が楽しめる大衆娯楽映画になっておりました。リズミカルなガイ・リッチーの良さもちゃんと残っていて、いちいちすごくワクワクできますね。

マーク・ストロングが出てると私とてもそわそわワクワクしてしまうんですよね。彼って若い頃のアンディ・ガルシアにそっくりでない?アンディ・ガルシアかっこいいよね。だから当然マーク・ストロングもかっこいいよね。頭髪寂しいのにね。
頭髪寂しいといえばワトソン役のジュード・ロウも競うかのように頭がおさびし山ですが、この映画は「ハゲてるのにかっこいい二大巨塔」が夢の競演をしている奇跡の映画でもあります。
ちなみにこの二人は「スタイリッシュな小綺麗ハゲ」で、ブルース・ウィリスは「泥臭い小綺麗ハゲ」で、ニコラス・ケイジは「小汚い散らかりハゲ」です(当社調べ)。褒めてます。「褒めてます」って注釈毎回入れないといっつも貶してるようにしか見えないな私のブログって。

てっきりこの人がモリアーティをやるんだと思ってたのに、彼は原作にもいないオリジナルキャラでした。うーん。続編に出てくるモリアーティよりもこの人がモリアーティに適任だった気がするんだけどなあ。そこが少し残念でもあります。とても良い悪役。

この作品を見た当時は、「ちゃんと推理もやって、アクションも華麗で、それでいて従来のシャーロック像を壊していない。それなのに新しい。素晴らしい作品だなあ」と思ったものですが、BBCが現代版シャーロックのドラマで世界的ヒットを飛ばしている今改めてこの映画を観ると、「このシャーロックあんま推理してないな……」「最終的に物理で片づけるな……」という印象が先に立ちますね。
ベネ版「SHERLOCK」を観て(気が狂うほど大ファンですがこちらは映画ではないのでこのサイトでは取り上げない、と思います……私の理性が飛ばない限り。そして私の理性はものすごく飛びやすく出来ています)、「そうだよな、アクションだってやるけど本来のシャーロックって推理にウェイトを置くもんだよな」と我に返りました。ロバート版はいささかアクションの方にウェイトを置いております。でもそれだって間違いではないと思うんです。原作にも「バリツ」なる謎の柔術が出てきますしね。動きがあって深く考えずとも楽しめる。非常にハリウッドらしく大衆的で良い作品だと思います。

ロバート・ダウニー・Jrはこの作品の前後あたりまで薬物依存のイメージで(アイアンマンのキャスティングの時は当初制作スタジオから何があっても雇わないと宣言されていたとか)なかなかのハンデを負っていたようですが、現在の活躍を観ていると彼がそのまま消えずに良かったと心から思います。
どんな過去を持つにせよ、素晴らしい才能は評価されるべき。才能の世界に生きる人間は、やはり才能でのみ評価されるべきであると私は思っています。彼の人柄ももちろん好きなんだけどね。
これからも良い作品を生み出してほしいものです。


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運命じゃない人……11桁の数字とそれにがっついていく監督の主張


2005年/日本
内田けんじ監督


あらすじ:
「運命」に翻弄されて主人公以外が右往左往します。


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別に避けていたわけではないのですが、ここにきて初めての邦画紹介になりました。基本的に何でも分け隔てなく映画を観るというタイプではないので、ピンときた映画に邦画が少ないというのはあるかもしれません。まあ単純に考えて、世界中で新しい映画が生まれているのだから、その中の日本作品となると必然的に観る本数も減る、のかもしれない。その割にアメリカ映画がほとんどな気もするのでちょっと詭弁な気もしないでもない。

内田けんじ監督作品、好きです。
「運命じゃない人」「アフタースクール」「鍵泥棒のメソッド」観ましたけど、どれもいいですね。唯一「WEEKEND BLUES」だけ観てませんが、調べてみたらamazonで高騰してる……面白いんだろうか……。
主人公の方、時々脇役でお見かけする方ですね。この人を主人公に据えるとかなかなかちょっと、なんというか、うーん、勇気がいるというかアレ(濁した)だなと思うんですけど、この作品ではそれがよく合っています。抜けている感じとか、華がない感じとか、ちょっと棒読みだとか(ああ結局言ってしまった)。
彼のその周囲が何も見えていない、何も考えていない感じが凄くこの作品にマッチしていました。ちょっと華のある俳優を使ったらこの作品の説得力が半減してしまうだろうなと思います。褒めてるようで全然褒めてない。褒めたい。褒めてるつもりです。頑張ってます。

この映画で一番メッセージ性を感じるのは、何と言っても主人公の親友が、失恋したての主人公に向かって次へ踏み出すよう説得するシーンの一連のセリフですね。

「お前電話番号なめんなよ」

「あの11桁の数字を知っているか知らないかで、赤の他人かそうでないかを分けるんだから」

「タイミングなんてないよ、お前が作るんだよ、タイミングを。」

「30過ぎたら、もう運命の出会いとか、自然な出会いとか、友達から始まって徐々に惹かれ合ってラブラブとか、一切ないからな。もうクラス替えとか、文化祭とかないんだよ。自分でなんとかしないと、ずーっと一人ぼっちだぞ、絶対に、ずーっと」

……分かってるよ!!!

冒頭から、主人公を通り越して「恋愛はしたいけどがっついていくのはなんか違うし、タイミングもなかなかないからなあ」と日和っているような人間に説教してくるんですよね。
なんだかものすごくメッセージ性を感じる…すんごい感じる……!と思っていたら、案の定脚本も手がけている内田監督が当時普段から言っていたセリフだそうです。公式サイトのインタビューにそのくだりが載っております。10年前の映画なのにまだ公式サイト残ってるんだね。凄いな。
内田監督らしくすごくギミックの凝った作品で、物の見え方が二転三転しますが、この映画で何を伝えたいかって言ったらごくシンプルに「運命なんてないから自らで切り開いていきなさいよ」って事なんでしょう。
言いたいことは分かるけど余計なお世話だよ!

「運命」って、どう捉えるかで変わる、定義の難しいものだと思います。この話も元カノの事は別れた時点で「運命じゃない人」だったとも言えるし、「元カノに出会って引き込まれる一連の出来事は運命だった」ともいえる訳で、「運命の人=自分の一生を捧げる恋人」という考えにはちょっと違和感があるんですね。この映画のタイトル「運命じゃない人」は、運命なようで、運命じゃないようで、どっちで呼んでも良い物事をあえてそう呼んだ、というものを含んでいるように感じます。
観る人にとっては「運命の人」と捉えられるラストではありますが、「運命ではないよ。運命を切り開くのは自分だよ」という監督のメッセージがそのタイトルに感じられると私は思いました。

それにしても親友のこの人のゲイくささは一体何なんだろう。
顔や体つきやしぐさがどうこうっていうんじゃなくて、あまりに親友のために尽くしすぎていて、行き過ぎ感を感じます。作中でも「あんたあいつの何なのよ」「お前には分かんねえよ」みたいなセリフが出てくるんですが、え、なに、腐?腐展開なの?BLなの?って、腐ってない私ですら思える献身ぶりでございました。でもこれが男同士の友情ってもんなんだよ、っていうことなんだろう……ね……。それにしたって行きすぎだと思うよ。まあ友情としてはとてもアツいけど。

余談ですがポスターは漫画「ツルモク独身寮」の窪之内英策さんです。古すぎて伝わらないかもしれない……。久々にこの方のイラストを劇場で見かけて「うわああ!」ってテンション上がったものでした。最近はお元気にしてらっしゃるんでしょうかね……。


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2015年7月13日月曜日

シークレット ウインドウ……白塗りしないジョニデを求めて

2004年/アメリカ
デヴィッド・コープ監督


あらすじ:
妻に浮気された上に盗作を疑われたので、なんかむしゃくしゃしています。


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この方「チャーリー・モルデガイ」の監督なんですね。「チャーリー~」の方は未見なんですが、予告を見る限りじゃだいぶノリのいい作品だと思っているんですがどうなんでしょう?割と幅広い監督なんだな。
私そこまでスティーブン・キング作品を観ている訳ではないと思うんですが、なぜスティーブン・キング作品ってどの監督が撮ってもちょっと雰囲気似通るんでしょう?観た映画がたまたまそう思えただけなのか……それともキング作品にかかわらずそういうものなのかしらん?例えば「ミスト」はフランク・ダラボン監督ですが、やっぱり空気が似ている気がする……似たような田舎の環境を舞台にしているからなんだろうか。
なんとなくだけども、誰とどう掛け合わせたとしてもキングのDNAが強いという気がしてなりません。
コープ監督って、脚本などで関わった作品を観ていると元々は「チャーリー~」側なんだなって気がするんですよね。そういう人でもキングには引きずられてしまうという、そういった強さがあるのかもしれませんね。

この作品は何が良いって、ジョニー・デップが普通なのが良いんですよねええ……!!一時期ジョニー・デップが好きすぎて、死ぬほど作品を漁る日々を送ったことがあります。が、昨今のジョニーときたら、顔に何色か塗らないと死ぬ病気なの?ってくらい何か塗ったくりますね。
この世代の俳優って、美男子であるためにアイドル扱いされることを苦にして汚れ役をやりたがる人がかなり多い気がします。ジョニー・デップはもちろんの事、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピットなんかがそのあたり。
俳優として実力を認められたいと思うのは分かるし、実際実力あると思うんです。だけどねえ、塗りすぎ。デップ、顔に塗りすぎ。それに伴って演技が偏りすぎ。普通でいいじゃないのよ。そんな私と同じように、白塗りのデップに食傷気味の方にお勧めです。
キング作品ってだけあって作品内容もとても手堅い。ザ・王道を行くサスペンス映画です。

ジョニー・デップを追い詰める相手役がジョン・タトゥーロだというのがまたこの映画のポイントですね。コーエン兄弟監督作品常連の彼がこんなとこにいるとなんかほっこりします。シャイア・ラブーフ版のトランスフォーマーにも出てたっけね。
なんだかいつも面白い印象のあるジョン・タトゥーロですが、この作品ではほんと不気味。どうやら本当に盗作された被害者らしいのに、ストーカーにしか見えない。全く同情できないんですよね。それはすなわちジョニー・デップから見た彼そのものの印象なんですが、イメージ通りに気味が悪い役を演じきっていて改めてジョン・タトゥーロの地の強さというものを感じます。こういうことだと思うんだよね。特に何をしなくても滑稽になれるし、気持ち悪くなれるし、気のいいおじさんになれるっていうのが、いい役者であるという事だと思うんだけど、なんていうか、うーん、とりあえずジョニーは顔に何か塗るのをやめてみてほしいと思います……この頃に戻って!

スティーブン・キングって大体の作品でカタルシスが得られると思うんですが、この作品もその期待を裏切りません。サスペンスものってやっぱこう、すっきりしないとねえ。それが徐々に氷解していくのでなく、キング作品は「あっ!うわー、うわー…!」って感じが一気にやってくるのが実に爽快で良いです。「妻の浮気」と「盗作疑惑をかけられる」という一見関係ない二つの物事が、やがて交わっていく様は見事です。「ただなんとなく」人が壊れていくという難しい題材に、説得力を持たせられるのってなかなか難しくて、これがうまくいかないと薄っぺらいお話になってしまう。その点この作品はジョニーが徐々に、淡々と壊れていく様子を納得しながら観れます。非常に手堅い佳作です。おすすめ。


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2015年7月11日土曜日

ダラス・バイヤーズクラブ……シンプルに生きたいと願うことに差別なんかないから



2013年/アメリカ
ジャン=マルク・ヴァレ監督

あらすじ:
エイズを発症したので、エイズ患者相手に非認可の薬を売りつけるビジネスを始めます。


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もはや役作りのために体重を数十キロ変動させることなんて普通のことになってきましたね。
デ・ニーロ・アプローチの由来になっているロバート・デ・ニーロは体重変動はもちろんの事髪の毛抜いたりホームレス施設に入ってみたり精神病院に入院してみたり、無茶苦茶することで有名ですけども、マシュー・マコノヒーはそういったデ・ニーロ・アプローチに見られるような綿密な役作りに加え、非常に感性の人でもあると思います。演技に対して、憑依型とまではいわないけれども…瞬発力が良いイメージ。
デ・ニーロはもちろん素晴らしい俳優です(好きです悶絶するほど。わたくしおじさまフェチなのです。)が、今やそれをまねて体重を変動させるくらいでは話題にもならない時代で、そこから、何をするかが求められているのではないかなと思います。過酷な時代になったね……。
ともあれ、マシュー・マコノヒーは、その期待を裏切らないし、越えていく。とても素晴らしい俳優です。もちろん、好きです悶絶するほど。昔見かけたときはタレ目でチャラい色男って感じだったのになあ。いつの間にか骨太な俳優になっていましたね。

この作品観てて、「エイズはホモがかかるもの」というデマが昔存在していたという事実を今一度思い出しました。そんな時代確かにあったね。ゲイでなければ大丈夫というその根拠のない決めつけと「ノーマル」という選民意識みたいなものが、とても滑稽に映ります。とくにエイズにかかった主人公自体が物凄いゲイフォビアで、びんっびんに差別してくるんだけど、差別する人に対する怒りとか憤りよりもやはり、「アホだなこいつ、自分がその病気になってるって言うのに、滑稽だわ」というおかしみが先に来てしまいました。すんごい差別主義者なんだけど、今この時代だからこそ「アホだなこいつ」と思えるキャラになり、なんだか憎めないキャラとして最初から存在できているんだと思いました。怒る気にもならんよね。エイズ発症しちゃってるし。
彼は結局最後までゲイを差別していたと思います。だけどビジネスパートナーのレイヨンの事は好きだった。ちゃんと相棒だったと思うんです。彼には差別が自分の中から完全に払拭されるにはあまりにも時間が残されていなかったけど、差別しなくなるっていうのは、きっとこういう、ゲイだとかノーマルだとか関係なく、その人を人として好きになることから始まるんでしょうね。彼はそのスタートに立てていたと思うんです。彼の芯の部分にあるものはとても愛おしいから、彼の事を好きになれるんだと思いました。ひっどいクズなんだけどねえ。なんだかクズばっかり扱ってるなこの映画レビューブログは。

私ノーラン作品が狂おしいほど好きで、マシュー・マコノヒーは「ウルフ・オブ・ウォールストリート」から本格的に追い出したニワカなんですけども、特によく見ているマコノヒー作品は「インターステラー」なんですね。それを観てるとしみじみ「ダラス・バイヤーズクラブと全然違う…」って驚嘆するわけです。インターステラーの彼は非常に包容力があるマッチョイズムな父親なんですが、ダラス・バイヤーズクラブではそんなもん微塵も感じさせない。ヒョロヒョロしてるからってだけではないんですね、なんかもう、オーラから違う。ゲスのオーラが凄い。彼のように変幻自在な俳優って私大好物です。タイプキャスト的な俳優も嫌いじゃないんだけどね、ベネディクト・カンバーバッチなんて最近その典型に陥ってる気もしないでもないんですが、それはそれで好きなんですけどね。やっぱ色んな映画に出ていながら「えっこの人って本当にあの映画に出てた人と同じ人なの」って驚きがあるとすごく嬉しい。マシュー・マコノヒーは見る映画すべてでそういう新鮮な驚きを与えてくれます。
しかしデ・ニーロも映画によってどんどん役作り変えていく割に、見かけるたび「デ・ニーロだ…」って思ってしまうのはなぜなんだろうか。

映画の話からは外れてしまうんだけど今回やたらデ・ニーロ・アプローチに触れたので。
ちょっと調べてみたらどこかのニュースサイトの画像でこんなのを見つけたのですけど、いやー、人って変わるなー!ダラス・バイヤーズクラブのマコノヒーは言わずもがな、右の方です。
右の人いかにもゲイとか嫌いそうだけど、左の人ゲイどころかなんでもありっぽそうだもの!同じ人なんだぜ!信じられん!
未見だけど左の方はおそらくこれ「マジック・マイク」のストリッパーの役の時ですね。ちょっと観てみたいと思いながら手つかずなんだよな。観てみようかな。


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2015年7月9日木曜日

ゴーン・ガール……ヒーローなんていない


2014年/アメリカ
デヴィッド・フィンチャー監督


あらすじ:
ベン・アフレックがクズだと安心しますね。


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どうしてでしょうね。「アルゴ」とかかっこよかったし、ベン・アフレックってそんなにいい加減なキャラばかりやってきたというわけではないと思うんですが、その嘘くさい笑顔とかね、「こいつ、その場しのぐわぁ……どんどんしのいでいくわぁ……」と思ってしまうんですよね。ベン・アフレックは悪くない。あの顔つきが悪い。結局ベン・アフレックが悪い。

デヴィッド・フィンチャー監督作品を久々に観た気がする……と思って調べてみたら、ゴーン・ガールの一つ前に観たフィンチャー作品は「ドラゴン・タトゥーの女」でした。なるほど。なるほど確かにフィンチャー。あれも機会があれば紹介したいと思います。
私の中でフィンチャー監督って「ムラのあるヒットメーカー」というイメージなんですね。フィンチャー作品で一番好きなのは「ファイトクラブ」なんですが、正直、それ以降は、あまり追いかけておりません……パニックルームとかもあまり評判良くなかったね……。ソーシャルネットワークは賞とかとってたけど、私はいまいちピンと来ていなかったんですよね。ちゃんと見ていないのも悪いけども。ちゃんと見ると違うかしらん。

この映画は特にベン・アフレックのダメ凡人ぶりがとてもいいです。「昔ラグビーとかアメフトとかやって学生時代ヒエラルキーの上位にいたことはあるんだろうな」と思わせるような、若さ故につけあがりその上に胡坐をかき成長もせずついでに腹もたるんだ、みたいな体型がたまりませんね。彼の体は傲慢の成れの果てという感じがよく表れておりました。褒めてないなこれ。

このお話、誰も頭が良くないんですよね。ベン・アフレックは凡人なりに頑張って真相を追うけど、凡人が追えるレベルにとどまっていますし、嫁は嫁で一番頭が良いと思わせておいて案外計画にぼろがでて行き当たりばったりな行動をしますし、ベン・アフレックの弁護人も鳴り物入りで出てきたと思わせておいて「これ以上は無理だぜ」とか渋い顔で言います。警察官も真相に手が届く位置に迫りながら証拠をつかめず事件は闇へ。どいつもこいつも、役立たずめ…!
ぐぬぬ、と拳を堅く握りたくなりますが、でも、これが本当の私たちの世界なんですよね。自分で難事件を解決することなんかできない。弁護士だって警察だって自分の仕事を全うする以上の事はできない。颯爽と即座に事件を解決するヒーローなんて、普通はそうそう現れないのです。フィンチャーはいつもそういう、「誰も超人的な力を発揮する事なんてできない」という事を突き付けてきます。

ベンにとってのヒーローがいなかったのと同じように、嫁ことエイミーにも、ヒーローなんていなかった。だけど彼女はある意味で物語の主人公でもあります。母親によって作られた虚構の、ではありますが。だから彼女は、物語の主人公としてヒーローの存在を信じ、誰よりもヒーローを求めます。それが、虚構だとしてもいいんですね。彼女自身が虚構だから。
どうしようもなく破綻した関係を突き付けられて、それでも彼女は「これが結婚よ!」と叫びます。こんな絶望しきったセリフはあるだろうか、と思います。彼女にとっての、これが、この結果が結婚だという事実。
母親によって常に理想を押し付けられてきた彼女の身体の、皮一枚の内側にあるどうしようもない空洞を垣間見るシーンでした。彼女には、何もない。彼女はきっと、それに気づいている。

もちろん彼女が望んでいるのは虚構ではない、真のヒーローなんでしょう。でもヒーローなんていない。今までいなかったものは、これからも現れない。この世界にヒーローなんて、いないんだよという、どうしようもない現実に、鉛を飲み込んだような胃の重たさを感じる作品でした。

それはそれとして、ベン・アフレックの嘘くさい笑顔は是非見ていただきたいです。絵に描いたみたいな欺瞞そのもののアメリカ人の笑顔を見せてくれるので笑えます。
最後までベンを褒めてるつもりで褒められなかった。いい役者なのに。


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